インテント

日常を入り口に。

U.F.O.が意味すること

出典:U.S. Navy/DVIDS(2022年公開)

UAP撮影映像の静止画

※宇宙船と確認されたものではありません。

 

昨今、UFOの画像をよく見る。

 

そもそも、どうしてUFOが話題になるのか?

 

私は自分自身に問いかけた。

 

「どうしてUFOが現れるようになったのですか?」

 

「冥王星の先へ」

 

自分自身が反射的に考えて返した言葉なのかもしれない。

 

もしくは、本当に言葉が宇宙のマスターから返ってきたのか。

 

どちらでもよい。

 

それを基に話を進めようと思う。

 

「冥王星の先へ」という言葉を、私なりに解釈した。

 

惑星は、発見された時代の世相が、その星の象徴に重ねられると聞いたことがある。

 

チャッピーに聞くと、占星術にはそういう見方があるらしい。

 

イラストにもしてもらった。

だとすると、「冥王星の先へ」とは、どういう意味だろうか?

 

冥王星の先と聞いて、私は太陽系の外側を思い浮かべた。

 

太陽系外の象徴としてのUFO。

 

冥王星の次は惑星ではなく、U.F.O.

 

面白い発想だと思った。

 

だとしたら、UFOに関心が集まる時代の世相は、どのようなものだろうか?

 

未知の力。

 

人智を超えたもの。

 

AIも、その一つかもしれない。

 

冥王星の先は、もう目の前かもしれない。

YouTubeでもお話ししています。

こちらからどうぞ

魂の在処

魂は、私の中にあると思っていた。

 

魂は、自分の体の中にあるものだと思っていた。

 

胸のあたりに、小さな丸のようなものが入っている。

 

はっきりと考えたことはなかったが、なんとなくそんなイメージを持っていたのである。

 

ところが、あるとき逆なのかもしれないと思った。

 

魂という大きな丸の中に、自分がすっぽりと入っているのではないか。

以前、記事に書いた不思議な夢がある。いくつもの記憶がフォルダのように並び、その一つに入っていくという体験だった。

その夢をきっかけに、魂についての空想が広がっていったのである。

 

目の前に広がる景色も、そこで何かを感じている自分自身も、魂の中に収められた記憶から現れているのだとしたら。

 

私たちは、まるで一本の映画を体験しているようなものなのかもしれない。

 

三六〇度、どこを向いても映像が広がっている。

 

音が聞こえ、匂いがして、手を伸ばせば触れることもできる。

 

しかも、自分自身が登場人物として、その中を生きているのである。

 

そう考えると、魂というものが、膨大なメモリーのように思えてきた。

 

そこには、これまでの記憶だけでなく、これから起こることまで入っているのだろうか。

 

右へ進んだ自分も、左へ進んだ自分も、それぞれ一つの可能性として収められているのだろうか。

 

前世や来世と呼ばれるものも、別のフォルダを開くようなものなのかもしれない。

 

もちろん、何か証拠があるわけではない。

 

ただ、私がそんなふうに思っただけである。

 

それでも、この想像には、なんだかワクワクするものがある。

 

もしも、これから起こることがどこかに収められているのなら、なぜ今の私には見えないのだろう。

 

そこで、もう一つ考えが浮かんだ。

 

わからないからこそ、味わえるのかもしれない。

 

誰と出会い、何に驚き、どこで笑うのか。

 

すべて先に知っていたら、その瞬間の感じ方も変わってしまうだろう。

 

物語の続きを知らないから、次の場面を見たくなる。

 

人生にも、どこか似たところがあるのではないか。

 

だから、あえて先の展開を見えなくして、この人生を体験している。

 

そんなところまで空想が進んでしまった。

 

嬉しいこともあれば、悲しいこともある。

 

その最中には、とても楽しむとは思えないこともあるだろう。

 

それでも、自分が何を感じ、何に心を動かされるのかは、もう少し丁寧に見てみたいと思う。

 

魂とは何なのか。

 

その答えが出たわけではない。

 

けれど、魂について考えていたら、目の前の人生を味わってみたくなったのである。

 

魂の記事

 

YouTubeはこちらから

 

Yogiboでゆっくり

Yogiboに寝っ転がる。

 

Yogibo(ヨギボー)は巨大なビーズクッションだ。

私だけでなく犬君や、家族も一日一回はYogiboに横たわっている。

 

横たわると自然と天井を見上げることになる。

 

ハンキング鉢がいつものようにぶら下がっている。

 

なんだか気分が高揚する。

 

一つ一つフリマサイトで選んで買い集めたものだ。

 

手編みのものからポット型のものまで様々である。

しかしもっとも工夫した点は、色である。

 

南側の壁には白色を。

 

北側の壁には黒色を。

 

白と黒が対局になるようにしたのである。

 

陰陽対局図をモチーフにしたレイアウトなのである。

 

ちなみに誰にも話していない。

 

こんなことを話し始めたらどうなるか容易に想像がつくからである。

 

インテントにもコンセプトがある。

 

日常から話を始めて精神世界や深層意識などあらゆるジャンルにテーマを広げていく。

 

実際に経験したこと感じたこと、そこから思い付いたことを自分の言葉で表現する。

 

などである。

 

コンセプトや設計思想などは作品をみても、すぐにはわからない。

 

あえて説明しても、あまり面白くないかもしれない。

 

しかし見えないからこそ意味を発揮できているのかもしれない。

 

​続きはYouTube

両耳引き伸ばし

グゥーと引っ張ってみたのである。

 

湯船に浸かったとき、自身の両耳を掴んで外側に引き伸ばすように。

 

身体が温まっているからか、余計に血の巡りがよくなるような感じがする。

 

その「気持ちいい」という感覚に、私は意識を合わせてみたのである。

 

なにか瞑想をしているような、落ち着いた気分になった。

 

「呼吸に意識を合わせましょう」

 

瞑想では、よくそう語られる。

 

ここからは私の独特な考えである。

 

呼吸じゃなくても、身体の感覚に意識を合わせれば、瞑想のような状態になるのではないか。

 

そんな仮説を持っている。

 

あまり聞き慣れない言葉かもしれない。

 

「仮説」

 

私は、この言葉が好きなのである。

 

まだ正しいかどうかはわからない。

 

だからこそ、自由に考えることができる。

 

そして、仮説が実際にそうであるか試してみる。

 

それが検証なのだと思っている。

 

誰かに披露することが目的ではない。

 

自分で仮説を立て、自分で試してみる。

 

そして仮説通りの結果になったとき、まるで宝くじに当たったように嬉しいのである。

 

仮説→検証

 

私はこのプロセスに、どこか芸術的なものを感じる。

 

変わり者なのかもしれない。

 

仮説を立てて検証する。

 

それを繰り返していけば、

 

まだ見えていない世界の理に、

少しずつ触れられるような気がするのである。

ツボ押し用の棒

ツボ押し用の棒。

 

手に馴染んで使いやすい。

 

指で押すより、軽い力でぐりぐりと押していける。

 

テレビでツボ押しをしてもらっているのを見たことがある。

 

「痛みMAX」

 

そんなテロップが出て、激痛を訴えているのである。

 

自分でツボ押しをすれば、そんな風にはならない。

 

自分自身が痛くなりすぎない絶妙な力になるように、自然とコントロールしているからだろう。

 

痛くないわけではない。

 

ただ、ストレスのような心理的な痛みや、外傷による痛みとは明らかに違った痛みなのである。

 

ツボ押しのような、心地よい痛み。

 

外傷のような、もっともイメージしやすい痛み。

 

ストレスのような、表現しにくい痛み。

 

よくよく考えると、どれもまったく違った感覚なのである。

 

それなのに、私たちはそのすべてを「痛み」という同じ言葉で表現している。

 

もしかしたら私たちは、限られた言葉によって、思考や感覚まで制限されているのかもしれない。

光をとらえる

光をとらえる瞬間。

 

それは特別だとおもったのである。

 

今のアイコンになったのは試行錯誤の末だった。

 

最初は灯台だった。

光が行く先を照らしてくれるというニュアンスは魅力的ではあった。

 

しかしどうも気に入らなかった。

 

上から見下ろしているような感じがしたのである。

 

次はカメラの絞りレンズである。

これは今の形の原型になっている。

 

カメラの絞りは光を調整する機能があるようだ。

 

その機能は、日常を切り取りそこから思想を広げていくというインテントの文章スタイルにぴったりとおもったのである。

 

しかしなにか物足りない。

 

AIに聞くと、ロゴというのはシンプルさも大事。

 

だから、今の形でも十分だという。

 

私はきっと、ロゴという枠からはみ出したかったのだろう。

 

それが今のアイコンになった発端だったとおもう。

なにかわからない神々しい光が絞りから飛び出してくる様。

 

ロゴほどシンプルでなく抽象画ほど崩れていない。

 

ジャンルに縛られないというインテントらしさをまさに表現してくれているとおもう。  

 

インテントとはなにか?

 

インテントとは潜在という意味らしい。

 

しかしそれだけでなく言葉に出来ないイメージを付帯させていきたい。

双子の月が示してくれる

「コミュニケーションが課題です」

 

私は度々そう言われていた。

 

学校の先生や同僚、上司や、家族が私のことをそうおもっているのはひしひし伝わる。

 

興味がない話が始まると、そこにいれないのである。

 

昔からそうである。

 

学校の授業中など全て寝ていた。

 

暇だから寝るのではない。

話を聞いていられないのである。

集中がもたず寝てしまう。

 

妻も何回も私に言う。

発達障がいにしか見えないと。

 

すごくコンプレックスだった。

しかし今はどこか受け入れ始めている。

 

弱点やコンプレックスも反対からみれば長所になるとわかったからである。

 

これはよく聞く話かもしれない。

 

しかし私は最初は受け入れることが出来なかったのだと思う。

 

さんざん私を苦しませた欠点や短所が、長所になるという発想を。

 

一度、やけになって無口になってみようと思ったことがある。

 

そうおもったのにもきっかけがある。

 

雑談や他愛もない話が私にとっては、すごく苦痛だということに気付いたのである。

 

恐らくそう言う人は少数派だと思う。

 

私の場合、しゃべればしゃべるほどつかれるのである。

 

普通は壁打ちのように相手とコミュニケーションをとっているようにおもう。

 

自分が投げたボールが同じくらいの力で手前に投げ返されるように。

 

私の場合、壁がないのである。

 

投げても投げてもボールは帰ってこないのである。

 

疲れる。

 

いっそのことしゃべらなかったらどうだろう?

 

それがきっかけである。

 

すると楽なのである。

疲れないのである。

  

自分の興味のあるジャンルにより集中できるのである。  

 

占星術は私の興味のあるジャンルの一つである。  

 

ふと思い出す。

占星術師マドモアゼル愛さん。

 

彼がいっていたこと。

 

月星座は欠損した能力を教えてくれる。

しかし自分には、それがあるように思えてしまう。

 

それを知らずに欠損した能力を使い続け、消耗する人生を送ることになると。

 

私の月星座は双子座。

 

双子座はコミュニケーションの星座。

 

私の経験からして、月星座が欠損を表すという考え方は真実だと感じる。

 

私は受け入れる。

 

自分の欠損を。

 

そのときからである、自分の特異な能力に気付きはじめたのが。